相変わらず好き勝手書いているが、方程式は存在しない。だからオリジナリティー、味つけといったことが大切。それをするためにはまず知ることから必要になる。ライティングが苦手なんです、必要ないっすよ、と愕然とする受け答えに何度でも見せなければ、と思う。メイン、フロント、バックグラウンドの三つの方向の光を使う事をベースとした場合不思議なことがよく繰り返されるのを見る。大きく二つあり、一つは光が足し算である事。もう一つは混在することである。
三つの光を足し算していけば合わさった部分は当然強くなりすぎる。作者の意図で周りを落としたビネットの様にしたいのであれば計算通りだが、実は光は当てる、という勘違いから始まった結果であることが大部分だった。
そうしてライティングを組み立てていけば灯数も光量も膨大になり影も収拾がつかなくなる。 必要な場所に必要な量を必要な光の質感に変化をさせて入れる。シャッター速度に希望値がある場合、被写界深度に意図がある場合、もしくは双方にイメージがある場合、デジカメなので増減感はISO調整が出来るにせよ光の粗筋は大体決まっている。フロックを狙うのであれば好きに置いて見ればいいが再現性、技術として理解することなどは難しい。
では、何故光を作るのか?私は露光差を作る事だと思っている。私には11年間の下積み時代に多くの師の作るライティングを見てきた膨大な記憶がある。
皆オリジナリティを持ち、理論の上に作られていたがライティングにこだわりを持ち、それがコマーシャル寄りになればなるほど複雑化したものを目の当たりにしてきた。難しい。そう感じれば前には進めなかった。私は法則を見つけようとしていた。
太陽は一つ。露出をどこに設定するかを決めて、光の当たる部分、影となる部分。どんな光の質に変換して、光の当たる部分の中でのグラデーション、影となる部分の中でのグラデーションをどうしたいのか。そうして適正の位置を決めればそれに対して露光差が生まれ、写真には立体感となって現れる。足し算のライティングを続ければ必ず行き詰まることとなる。
二つ目の「混在」はライト同士が干渉していくこと。イメージに基づきライトを設置していく過程で一つのライトが他の意味を持つライトや被写体に干渉をすることで、調整が複雑になることが多い。一つのライトに複数の意味を持たせる場合も多々あるが、出来るだけシンプルに分けて組み立てて行く方がイメージに近付けやすい。
今回の話のコアはここにあります。
私は生光をよく使います。バンク類も使いますが光を加工し易いのは生光です。その方法は影の出方にシビアになります。生光を使いながら影をコントロールする技も編み出しました。光はイメージに基づき加工をして使います。
今から17年程昔に、当時の師が撮影をされている時同じシチュエーションでレフを使う場合、使わない場合があり悩んだ記憶があります。完璧主義の方でしたので入れ忘れた等あるはずもなく、当時は答えには行き着かなかった事でした。今は分かります。必要な場所に必要な光を入れられていたということです。片側からの光が強ければ陰影を和らげるために、夕方の弱い自然光の光線であれば発色を良くする場合、回り込んだ光に包まれている場合は使わなくとも撮影が出来る場合。
そういった初歩的な事さえ理解出来なかった私が、今こうしてライティングについて話をしています。私が昔見つけようとしていた法則は存在しませんでした。
見つけたのは組み立て方です。どこからどんな光がどんな形で入るイメージを作った?
いつもそんな言葉をスタッフに投げかけています。
THE SODOH HIGASHIYAMA KYOTO