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2014年07月06日
私がフロックを嫌う理由。
 もう20年前のやや薄れ始めている記憶の中で、はっきり覚えている瞬間がある。 夏。毎年会社から参加させられていた写真業界の撮影会前の昨年撮影し、手焼きをしたプリントを一同に集め、金賞、銀賞など順位を決めている時のことだった。
私は当時、作品というものがよくわからず、見よう見まねでひたすら枚数を撮っていた。もがいていた。何を撮りたいのか、表現力とは何なのか、入賞するためには何が足りないのか、トップの人はどんな写真なのか。今から思うと素質の無さに落胆もするが、救いがあるとすれば真面目に取り組んでいたことに思える。
そう、頭の中のイメージを作り、それをフィルムにそのまま写し込みたかった。
 
 審査も中盤に、当時60歳くらいだろうか、京都の老舗の写真館の先生が声高に笑いながら話していた内容に愕然とした。
「ポジで撮ってな、あーやこーや重ねとったらこんなん出来てな、なんとかならんもんかと。」
確か入賞だった。そういう技術があることは知っていたがイメージのはっきりしていない写真を撮影した結果、なんとかならないかともがく事の意味。
その時トップだったのは畑違いの医者で趣味でハッセルを持ち、広角で寝転んで煽りフレアーを入れ込み、モデルが鋭角的に切り撮られたものだった。
こんな素人も存在すれば、場当たり的なものを作った先生と呼ばれる人もいる。
 
 私はフロックを実力ではない、とはっきり思う。たくさんのカメラマンがいて、ずっと画面が右に傾いている写真を撮り続けている。連写をし続けて2000枚を越える膨大な写真を結婚式で撮る人もいる。全てがワンパターンの、被写体が次の人になっただけのカメラマンがいる。おしゃべり好きのコミニュケーションを取れば多少下手でもクレームは来ない、というカメラマンもいた。
 
スタイル。そう言うかもしれない。
 
 今回の話のコアはここにあります。
カメラマンの数だけ、その人の培われたもの、技術、方法論がある。これに否定はないが、不満足な撮られた結果の写真をあれこれいじり、何とか作品にしようとする気持ち、方法論を培ってはいけないと思っている。
イメージをすること。そこに辿り着く方法を選ぶこと。望んだ結果が残ること。 例外として、フロックはその場にいて、カメラを構えていて、シャッターを切れたから残ったものでもあります。そのことを私は運が良かった、と言います。